» 投票箱を前にして。
2016年7月10日。鹿児島のとある投票所で、私は参院選の投票立会人をしながらこの原稿を書いている。天気はあいにくの雨のため、人影はまばら。投票者の来ない投票所は特にやることもないので、投票をサポートする役場の方々と世間話をしながら、外の雨降りを眺め、お茶を飲む。
大小問わず、私は今までにいくつかの選挙を有償スタッフとして経験してきた。そして今年も、2016年の参院選までの間に実に色々なことがあった。
その中でもSEALDsの奥田愛基さんとお会いして伺った、
「デモもはじめてだったし、選挙も今回はじめてやった。自分はまだ若いから、何が意味のあることなのか、ひとつずつ試してる段階なんです」
の言葉が記憶に残っている。20代前半で、自分はこんなにでかい「試す」はできなかった。もしその年代で同じ規模の「試す」をやった人がいれば、どうか教えてほしい。
かたや、ここ数年感じている選挙制度への違和感は前より大きくなった。今日は試みにそのことを書き顕してみようと思う。この文章を通して私がしたいのは、選挙が終わった後に、雨後の筍のように発生する「ほら!日本の政治は俺の言ったとおりだ!」という後出しジャンケン大会に参戦することではない。
そうではなく、恐ろしいスピードで日々単一の視点に束ねられていく世論というものに対して、ささやかな結界を張るような、言わば思考の安息所を建てようとしての行為である。
» 個人の課題と、政治的な課題について
前提として私は鹿児島の山中に、電気・ガス・水道を契約せずに暮らしている。家賃は年間1万円で、家を自分で直しながら、車を廃油で走るように改造したり、下水を使わずに済むようにコンポストトイレを作ったり、自分の技術で問題解決することを重視している。現在33才妻ひとり子ふたり。今のところ健康だ。集落には上水道もなく、うちには下水もないが、私個人(とその家族)としては政治的なサポートを必要としていない。
それに対し例えば、貧困や、在日、LGBTなどのマイノリティの話題は、それ自体を身近な話題に感じてない人にとっては「個人の努力の問題論」として、ひとまとめにしがちだが、マイノリティであることで苦しみを感じる人が一人でも地域にいるのであれば、他者が望む望まないに関わらず、それは地域の政治課題となる。
では、仮に私が「電気やガスや水をまかなうのは個人の問題だ。他者や政治に甘えるな」と言ったとしたら、それを受け入れる人はどれくらいいるだろうか。おそらく「普通は個人が担うものじゃない」という声が大多数だろう。生存のインフラを自分でまかなわない甘えは許されて、マイノリティの苦悩は許容されない世界。そんな世界観は実に勝手でいい加減なものだと思うが、そんな前提が通用する世界に、今のところ私たちは住んでいる。
(ちなみに、「個人の努力だ」と諭されて解決するような苦しみは、現実には皆無であろう。求められているのは、苦しみのわかち合いや共感であり、「個人の努力論」は共同体の一員としての責任放棄に他ならない。同じように「核武装しないと殺されてしまう」という不安に対して「誰とでも話せばわかり合える」と諭すのもお門違いだ)
» 政治を通して何をしたいのか
そもそも、私たちは政治(誰に会って・何を話して)を通して何をしたいのだろう。先日、ある衆院議員の秘書氏から電話がかかってきたが、電話の中で彼は「最終的に国政が担わなきゃいけないものは、国防と外交だけだ。それ以外は全て民間でもできる」と言っていた。基本的に私もそう思うし、さらに民間外交も相当なところまでを担える可能性があると思っている(この話はまたいずれ)。
かたや私は自分の住む集落の自治会長をしているので、自治会長の集まる寄り合いにも顔を出すが、ここでの自治とは名ばかりだと思っている。たとえば、台風での倒木や、道路の補修、建物の維持管理など、困ったことがあれば市にお願いする。自分たちがそれを解決できる技術や道具を持っているにも関わらず、である(鹿児島の山間部のおっちゃんたちは、農家+大工+土木+機械屋+庭師+猟師あたりの技術を「一般教養」として持っている人がたくさんいる)。
以前、その理由を聴いたところ「一度勝手にやってしまうと、次から活動手当が下りなくなるから」とのことだった。市の税出が減るならよいではないか、と私は思う。そもそも市の税収を払っているのは自分たちなのだから。
この話は小さな一例ではあるが、見るべきものがあると思う。自分たちが、個人の問題、もしくはその集まりとして解決できる事柄を、わざわざ政治的課題へと格上げしてしまっている点だ。個人であれば、チェーンソーやノコギリを持ってくれば1時間で解決できるものを、政治的課題に格上げした瞬間に、解決のためにはおびただしい協議や議会が必要となり、その議会で話し合うためには議員を選出する必要が生まれ、そのために選挙まで必要となる。
私がここに顕したいのは、まさにこのことだ。全部とは言わなくても、そもそも自分たちのレベルで解決できることは、社会にいっぱいあるんじゃないか。だから、選挙という「イベント」に期待するのではなく、今自分の技術をもって実は、政治の大部分に取り組めるのではなかろうか、と。その視座からすると、政治における「選挙と投票」は、日本酒における「酒粕」みたいな部分だと私は思う。
つまり、「選挙と議会」は広大無辺な「政治分野のごく一部」でしかない、ということだ。
» 選択と委託の違い
また、選挙のことを投票率向上のキャンペーンで「未来への選択」と呼んだりもするが、選挙自体は選択というよりも、どこまで行っても「委託」である。
たとえるなら、「貧困を減らすこと自体を選択」するのではなく、
「貧困を減らすことを約束した議員さんを、選挙制度を通して託すかどうかの段階から選択」する作業であるわけで、貧困を減らす目的へ向かうための手数はかなり増える。またその議員さんの任期中には、どんな心変わりやスキャンダルや、社会情勢の変化があるかは誰にもわからないし、議員になったからといって確実に貧困を止められるわけでもなく、党是や、他の議題や、官僚や産業との兼ね合い、時事性との按分となる。なんと壮大な道のりであろう。
私が言いたいのは、それが良いとか悪いではなく、選挙を通して未来を「選択する」という方法論が、そもそもそういう性質を持っている、ということだ。そのかわり、議会決定までいけば、その決定がかなりの力を持つのは確かだ。しかし実際には、多くの選挙事務所は選挙前3~6ヶ月くらいからしか準備しないし、これまでの選挙運動はお決まりのような「お願いと訴え」ばかりで、それは実際の力にあまりならない。
だから、自分が実現したい事柄に対して、その遅さ・不安定さを内包する選挙という手法が見合っているのか、ということを自問したいのだ。現に、何度も私たちは議員の「公約違反」「発言の自由な凍結・解凍」に立ち会っているではないか。そのたびに議員の責任を追求するのもいいけれど、まず私たちが失敗から学び、問題を作ったマインドセット(先入観)より大きな枠でものを見る必要があると、私は思う。もしかしたら、政治的な意思決定と選挙制度の相性は大して良くないのかもしれない。
» 選挙に注力することは権力構造を支えること。
そして、投票行為と選挙のみを絶対視するのは権力構造の下支えに他ならない。なぜなら私たちには選挙のほか、日々の意思決定、ある程度自由な政治活動、もしくは直接請求権など、広範な参政権が認められているからだ。
「投票に行かないのは未来世代への責任放棄だ」といった発言が毎度選挙では聞かれるが、そんなことはない。日本の社会の中には投票権を持たない者も大勢いるが、だからと言って未来を放棄しているわけではないだろう。何度も言うが、選挙は日々の政治の中の、特殊なイベントのひとつでしかないのだ。
「投票」に結びつくことによって見えづらくなってはいるが、選択も未来のデザインも、そもそもこの国に住む住まないに関わらず誰にでもできるし、いつ、誰がやってもいいことだ。
議会決定をしなくても、質の高い伝達や教育は世論や文化を作ることができるし、
議会で予算枠を獲得しなくても、現代ではクラウドファンドや単なる「呼びかけ」ですらお金を集めることができる。もちろん緊急性や規模感などの諸条件、それに国防などの直接民間に担えないことも当然あるが、その境界線を自分たちで改めて話し合って、それぞれがそれぞれの責任で考えて、どこからどこまでを自分たちでやり、どこからは行政に託すのかの再判断が、今必要なのではないだろうか。現状では、自分たちでできることすら政治に委託していると私は思う。
たとえば、貧困の連鎖に対する民間からの施策「こども食堂」や「学習支援」の取り組みは、行政に期待するより個人から始めるほうが、おそらく早いし本質的な意味があると私は思う。「まだ国が動いてくれない!」といった言葉をさまざまな現場でよく聞くが、国が動かなくとも、素早く反応し、本質的なことを実現していける自分達ひとりひとりを、ひとまず祝おうではないか。
(それと同時に日本全体の、失敗や未熟さをこれみよがしに叩く風潮によって、進取の気風は後退してしまっている。今、行政が新しいものに取り組みづらいのは、みんなでデザインした社会の結果なのだ)
» ひとつひとつ、自分たちで改めてやること
国歌を変えるのは大変だが、社歌はいつでも好きに変えられる。憲法を変えるのは一大事だが、未来の子どもたちのことを考えながら地域の憲章を作るのは楽しい作業だろう。地域通貨は万全ではないけれど、全く使えないわけではない。
そして私は、聞きかじりにはもうウンザリだ。本当に体験したことから抽出したものだけを積み上げていきたい。電気・ガス・水道の3大インフラを契約しない暮らしも、やってみたら簡単だった。
「それはお前が社会インフラの恩恵を受けてるからだ」という意見はたびたび聞いたが、どんな時代でも社会インフラの恩恵は必ずあるし、時代の範囲内でしかチャレンジはできない。それに社会インフラがあろうがなかろうが、私の暮らしのように自然資本への負担は少ない方が、次世代の使える自然資本は増える。つまり、やらないよりよっぽどいい、ということだ(さらに言うなら、自分でやってない人から言われる筋合いは微塵もない)。
そして、自己裁量の分野が増えるだけで、驚くほど出費は減る。出費が減れば、生活に余白ができる。余白ができれば、深くものを考える時間が生まれる。自分でできるようになること自体が、自分にとっての最上のセーフティネットなのだ。
同じように、個人の暮らしだけでなく、ひいては地域の暮らしやそれ以上に広がる政治も、自覚した個人たちでとりかかる時期に来たのではなかろうか。選挙以外の方法で、政治を扱う段階だ。
先に書いたように、身の回りの出来事を政治的課題に格上げするかどうかは、個人が決めることができる。私はこれからひとつひとつ、身の回りの問題を自分の裁量に落としこんでいこうと思っている。電気、熱源、水、食肉、燃料、下水はクリアした。医療については集落の長老たちを参考にしている。彼らは90才を超え、自分で歩き、車を運転し、スマホを使う。その秘訣は、考えを委託しないことだろうと私は推量する。そして今、新たに私が着手しているのは、プラスチックのゴミと教育の問題だ。それと同時に、移住者を募り始めている。全て自分たちでやるのだ。
そろそろ、委託の先に行こう。
選挙とは、委託者を選ぶことだった。今まで、私たちはあらゆる作業を委託しあい、分業し合ってきた。
地域の自治を市町村議会に、より広い地域の問題を都道府県議会に、国の進む方向を国会議員に委託した。
その結果、本来自分で負うはずの「生きることそのものの負担」を、誰かに肩代わりさせたのだ。
自分の収めた税金を使い、遠くのどこかで誰かが解決してくれる、そのはずだった。
ところが、誰かに肩代わりさせた「生きることそのものの負担」は蓄積され、いつか誰も背負いきれなくなったとき、破裂したその余波が、はじめて自分のところに帰ってくる。
その時になって、「また」気づくのだろうか。なんて重大な決断を委託してしまったのだろう、と。
要は自分でできることを、誰かに肩代わりさせてはいけないのだ。
議員や政治家に託す仕事の量を減らすことで、議員の権威は弱まり、市民ひとりひとりの社会的自立は強まる。強い議員を選出することに血道を上げるよりも、責任を自覚し自分の頭で考え、広告を見抜く市民が必要なのだ。どうして、自分たちの問題を自分たちで解決しようとしない民衆の集合体が、健全な国になろうか。
投票所に座って10時間。そろそろ投票時間も終わる。雨は上がったが人の出は変わらず。だが、それを憂うのももう過去の話だ。さあ、誰に会い、何の話をしようか。
(文責:ヨホホ研究所 テンダー / 編集:藤原祥弘)