「お誕生日おめでとう？」と僕は訊いた。
「知らなかったの？」
「いや、知らなかった」
それは４月８日の夜、僕たちが出会ってから４８５日９９００時間目が過ぎた瞬間だった。

ユキは「変なの。誰でもお祝いするものじゃないの」と言った。
「あなたが関心がない事は分かったけど、４月８日はとにかくお誕生日おめでとうよ。完璧に。２００パーセント」
水滴のついたグラスに入ったビールを美味しそうにごくりとのみほして、満足げにユキは続けた。
「『花まつり』っていうのよ。グレート・ブッダのハッピーバースデー。世界中の仏教徒がお祝いする日なの」

やれやれ。僕は彼女のこれと決めたら突っ走る性格には少し辟易するのだけれど、反面、美しく魅力的な彼女のほとばしる熱意を一番そばで見つめていられることは、人生における大きな喜びだと思う。それに今回のは三日坊主ではなくて、ずっと前からの話らしい。

「昔から――仏教に興味はあったの？」

ユキは肯いて、昨年訪れたネパールの体験を熱を帯びて話した。
ブッダの生誕地が今や世界遺産になっていること。生まれてすぐ「天上天下唯我独尊」と言ったという幼子ブッダのスタチューがあって、そこは色とりどりの花咲く綺麗な苑で、世界中のツーリストが巡拝に来ること。サドゥーたちの読経をききながら、沈む夕日をみて、その美しさが今でも忘れられないこと。

「年をとるにつれてね。仏教は少しずつ輪郭を濃くして、アタシの住んでいる世界を浮き彫りにし始めてきたんだ。何故だろう？アタシにもわからない。安心できるのよ。ただ落ち着くってだけ。きっとこうなる必要があったからだろうね。あるいは――どうしたの？」

気づくと僕の頬は涙でぬれていた。泣いたのは本当に久し振りだった。まるで自分が現地にいて、その夕日を並んで眺めているような錯覚を覚えたのだった。
でもね、いいかい、僕は遠い国で・遠い昔に生まれたブッダとやらにノスタルジィとかを感じたワケじゃないんだ。
つまり言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。

　僕は・君の声が・好きだ。

人はどんどん変わっていくものだから、過去には縛られたくない。だから遠い国の偉人よりも僕はいまの君に帰依したいし、どんな風光明媚な場所よりもいま君と居られるここのほうが大切なのは、疑いようのない事実だ。
けれどあと１０年も経って、この部屋のソファや僕のかけたレコードや、そして僕のことを覚えていてくれたら、いま言ったことも思い出して欲しい。僕が君の中に息づいていたら嬉しいんだ。
つまり僕は、いま現在生きて、そばにいてくれる君の声が、好きだ。

「ふうん」とユキはまるで不思議なものを見るように言った。
「――どれくらいアタシのこと好き？」
「世界中の仏教徒がみんな溶けて、バターになってしまうくらい好きだ」と僕は答えた。
「うん」
「アタシ偏屈だよ。本当にこのままでいいの？」
「どう変えればいいかわからないから、そのままでいいよ」
「君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも歩き方も酔っ払い方も、なんでも好きだよ」
ユキはとても安心したように見えた。「もう一度一緒に祝ってくれる？『ブッダお誕生日おめでとう』って」

その夜、カールトン・アンド・ザ・シューズは１２６回も『ギブ・ミー・リトル・モア』を唄った。
おそらくひらかれた関係性には際限ない祝福が与えられるのだ。