私たち家族が東京の都心から東京の水源でもある西多摩の田舎に移り住み6年が過ぎた。ここでの暮らしを振り返って、最もしみじみと感じ入ることが何かと聞かれたら、くるくると命が“死んで生まれ、死んで生まれ”いく自然のサイクルと、その中に自分も混ぜてもらっているという安心感である。
誰しもが頭では分かっている“生まれ+死ぬ”・・というこの2つで1セットになっている言葉通りの意味が、こんな風に体にしっくりと馴染めたこと・・・この“自然につながっている自分”という安堵感を得られるのは、一重にこの自然のお陰である。
我が家の庭先には、大家のお母さんから「庭の中のこの石で囲まれたところにだけは、手をつけないでね。母が作った庭だから。」と言われている所があって、季節ごとに毎年同じ花が咲き(そして枯れる)、また次の季節がやってくればその季節の花が順々に咲いてくれる。そこは特別に計画的に美しいのだが、山の暮らしをしているとそこにある何もかもが、四季の巡りを感じさせてくれる。鳥の声や沢のせせらぎも。
そして、山には虫がたくさんいる・・・というか、人間以外の生き物がたくさん暮らしている所に、自分たち人間がお邪魔させてもらっているというのが、私のここまで暮らしてきた感覚で、昨日など玄関から外に出ようとしたらすぐ目の前に蜘蛛の巣が大きく張られていて驚いた。そんな風に日々目に入る生き物として虫は、都会と比べて圧倒的に多いし大きい!(ゴキブリは滅多に見ないがとても小さい)
当然ながら、その虫たちは全部死ぬのだが、それらの死骸はどこにいくのか?と言えば、周りは土だらけであるから土の上に落ちる。そう、気づけないけど、たくさんの虫の死骸が毎日毎日土の上に落ちる。山の狸も鹿も熊も、人目につかないところで死んで土に還っているはずだ。
こういう風に見つめてみると、土が本当に愛おしく感じる。土は死んだもの枯れたものが層になって出来ているのだ。こんな風にはっきり書かれてしまうと逆に気持ち悪く感じる人もいるんだろうけど、ここから新しい命が生まれてくる。それが現実だ。まさに生→死→生→死→生→でしかない。
愛すべき大地・・巡る命は、作物や木々に栄養を与え育ててくれる。また、雨は土を潤し、川へ、海へ。そして、また水蒸気となり雲へ雨へと巡る。冬の晴れた日の朝靄の美しさは格別で、朝日が地面に差し込むとすぐ、景色全部が一気に煌めき出し、小さな小さな水の粒となって輝きながら天に登っていく。その循環の中に毒がまじれば、それも一緒に空に海にと、少しづつだけど循環し蓄積していくことになる。過剰であれば、具体的に命の巡りの妨げになる。
今年は蛍が多いと感じれば、排水している自分としてもホッと胸をなでおろし、そうやって自分のやっている事の結果という意味での自然と向き合うことになる。プラスチックゴミが海に流れでてしまえば、海の生き物が飲み込んだり、遠い国の海岸を汚すことになるが、それを関係ないとは思えない感覚も育つ。命は1個1個でバラバラに切り刻めず、繋がっている。その巡り巡ってきた現実を、いつでもここにある自然が、私に静かに教えてくれているのだ。