「私は、助産院で産みたい。会陰切開はしたくない。」
初めて聞いてギョッとした。初産婦のおよそ7割近くが、赤ちゃんが出てくるとき出口が狭いため、刃物で膣口を切り開くという。切るか、切らないか。どの体勢で産むか。産後はどう過ごしたいか。産婦人科のドクター主導ではなく自らの選択肢の多い助産院で産みたいと彼女は言った。
僕はこの10ヶ月間で、はじめてお産と向き合った。どんな書類をそろえてどんな手続きが必要なのか?女性の身体にどんな変化が起こるのか?破水って?逆子はなぜキケンなのか?知らないことばかりで、これらをこなしてきた世のカアチャンたちに正直頭が下がった。
こうしてわれわれは、都内の下町の小さな産院を選んだ。2階は住まいで、1階が広間。その部屋はお母さんが力みやすいように、大きな抱き枕があったり柱があったりと工夫されている。5月に入ってすぐ、我が家では出産予定日を迎え、定期健診に訪れた。
「この様子じゃまだまだだね。ゴールデンウィーク中に生まれるかなぁ。再来週になると42週に入って過期産になるから、ここで産むか病院にいって貰うかどうか、要相談。」
その日の深夜、破水した。
妻は里帰りしていた実家から、朝を待って病院へ。
大事なし、と抗生剤を処方され、助産院へ移動。
僕は昼に合流、彼女の落ち着いた様子に安堵する。
陣痛を促進するために三陰交(足の付け根のツボ)にお灸をすえる。
向かいのとんかつ屋で昼食を済ませ戻ってくると、部屋の蛍光灯は消され、ダウンライトの中、妻が四つん這いで枕を抱えている。ヒーリングミュージックがBGMで流れている。
ときおり苦しそうにするが、強い陣痛がまだ来ない。
脂汗が出ている。
汗を拭いてやり手を握ることしかできない。
夕方、母体発熱。38度5分。
脱水している。
病院に搬送すべきか。
力むごとに水を飲ませると体温が下がってくる。
「奥さんまだ陣痛が弱いのよ。このままでも明日の朝には生まれると思うけれど。一晩この状態って結構シンドいと思う。破水してるし。もう『今晩産む!』って覚悟決めて頂戴。あと1時間で産もう」
鍼の先生に往診にきてもらう。
施術でぐっと陣痛が進む。
そこから1時間、午後7時00分。
とっさに覗き込むと、赤ちゃんの頭はすでに出ていた。肩から下も見えてきていて、僕の目頭もカッと熱くなる。
うぶごえを聞いたときの妻の安堵の表情は、忘れることはできない。
2746gの、女の子だった。
仏教には「四苦」という言葉がある。「生・老・病・死」を指し、ブッダが「それらは自らの思い通りにならないこと。ゆえに苦しむ」と説いたという。
「老・病・死」はわかる。しかしなんで「生」が苦しみなんだろうなぁとずっと思っていた。老・病・死が「生じる」から苦しむ、と理屈では解っても、腹落ちしない。
ところが最近になって『胎内記憶』というものを知った。2~5歳くらいまでの子供の中には、胎内にいたときの記憶を語る子が一定数いるという。「出てくるとき、狭くて、苦しかった。」と語る子もいたそうだ。この苦しみにはリアリティがある。
まさか子供自身も陣痛に耐えていただなんて、思ってもみなかった。であればなおのこと、生まれてきた子供にはようこそ、というねぎらいと慈しみのことばをかけたい。
産後、父親はそこに泊まってよかったので、子供と布団を並べて2泊した。
夜泣きってこれほどにも頭に響く周波数なのかと驚いた。そして、この歳になるまでついぞ思い出さなかった、幼い日の夢をみた。妹がまだ赤ん坊だった当時の記憶が、泣き声に喚起されて甦ったのだった。
食事は助産師さんが作ってくれた。「旦那さんも食べる?」と言って出してくれたごはんは、分厚い切り身の焼き魚で、美味だった。
僕は前からうそぶいていたことがあった。
「受精した時点で、オスとしての大きな役割は果たしたんだから。カマキリだって役目が終わったらメスに食べられちゃうんだよ。あとの人生はオマケみたいなもんだなー。」
その夜、お返しとばかりに言われた。
「私も出産というメスの大きな役割は果たしたから。ここからは2人で育てていこうね。」
この子が大きくなる頃に日本はどうなっているんだろう。
ふよふよの小さな指に触れながら、健やかに育ってほしいと、願うことはそれ1つだった。