「枕にも神さまが住んでいるのだから、投げちゃいけません!」と、私は育ててもらった。今はなき当時の実家は、築100年を越す日本家屋で、幼い私にとってまだ八百万神の気配があったんだと思う。だから、子どもの頃はもみ殻の枕を間違って踏んづけてしまった時は、まるで神様が枕の中で「痛いっ!」と言っているような気持ちになって、私の方は「ごめんなさいっ!」と、声に出して謝りながら、悪いことが起こらないか?と、ドキドキしたものだ。懐かしい・・純粋であった。
買ってもらえるから、作り続けられる。
そんな私が、未来のために出来ることとして大切にしたいのは「モノを大事にする」ことだ。この当たり前のことに、最近とても危うさを感じている。
作り手(メーカー、生産者など)側に、「よりよい世界を、豊かな環境や未来を残すために、もっと面白くて&良いモノを作って!」と伝えるのも大切だが、半分は私たち、買う側の責任でもある。単純に、売れればもっと作られる訳だし、買ってもらえなければ、どんなに良いものでも作り続けることは、出来ないからだ。
人はそれぞれ価値感が違うし、お金の感覚も事情も違う。でも、モノを大切にすることは誰でも心がけで出来ることだ。お金に余裕のある人は素敵なデザインや、いい素材で出来たモノを買って磨いて丁寧に使ったらいい。こだわりがあまりない人やお金に余裕のない人は、当たり前に使えることに価値をおいて優しく使ってあげるのがいいと思う。それぞれの価値感に沿ってモノと向き合えばいい。
モノを大事にすることは、自分を大事にすること
毎朝お世話になっている目覚まし時計は、買ったとき、近所で気軽に寄れるお店の中では選りすぐったつもりだが、なんの変哲もないモノだ。“特別好きでもないが、不満もない”(あ、電池の蓋がなくなったが、まだ使える)。そんな目覚まし時計を水で固く絞ったタオルで拭いてみる。前よりピカピカとした姿を見ると、なんだか気持ちがいい。明日布団の中で時間を確認する瞬間に、少しだけいい気分になるのだろうと思う。昨日の朝よりシャン起きられそうな気持ちになる。
そうなのだ。モノを大事にすることは、自分を大事にすることに繋がっている。私には、自分を大事にできない人が、モノを大事に出来るイメージがつかないが、みなさんは、どうだろう?でも逆に、目覚まし時計を大事にしたら、自分のことを大事にしたような気持ちになる。双方に大事にする気持ちを育みあえる〜ように思うのだ。なんて素敵なことだろう。
だから、新しくモノを持つときに、長く付き合えそうか?という目線で考えてみるのは大事なことだと思う。おせっかいで付け加えるなら、“特別好きでもないが、不満もない”という状態は、自分が思っているよりも、感謝していいことなのだと思う。そういう気持ちを“愛着”とか表現するのかもしれない。
お気に入りの陶器の湯たんぽ
さて、今回暮らしに取り入れたくて手に入れたのが、陶器の湯たんぽだ。
私は、最近アースガーデンによくご出店いただく、広島のmarru(マアル)さんというブランドのネットショップ(愛用の“新月ショーツ”もこちらのモノ)で購入したのだが、作られた場所は、実は私の実家がある岐阜の陶器の町だ。陶器のほっこりとした雰囲気が優しくて、お湯の注ぎ口の蓋を回すとき、陶器とパッキンのゴムでキュッキュッというのもちょっと懐かしくて楽しい。一緒にセットで買った、オーガニックコットンのきんちゃくは、やわらかく、お湯を入れて抱っこすると、その重さと暖かさに、赤ちゃんを抱っこしているような気持ちになる。
最近よく見るポリエチレン製の湯たんぽは、お手頃だし、割れなくて便利だ。昔からの智恵をそのまま今の暮らしに取り入れられるような商品が売られるのは、とても有り難い。でも私にとっては、ポリエチレン製のより、真っ赤な陶器の湯たんぽの方が、長く大事に使いつづけられると思ったから、陶器のを選んだ。
・・・安く買ったことを、すぐ手に入る気軽さを、“すぐに使い捨てていい”という言い訳にするのは止めたいと思う。倍のお金を払ってでも、自分のことも、そのモノのことも愛情が持てるような買い物を出来るだけしたい。何を選ぶかは?私の、あなたの選択なのだから。
http://marru.net/