我が家の田舎の古民家には、なんと、大家さんの仏壇が置いてある。最初家をお借りするにあたっては、その仏壇のことと、町内会に入ることが条件だった。当時の私は、仏壇付で借りる自分たちの決断よりも、仏壇付で貸してしまえる大家さんの判断の方に驚いた。
仏壇付の家を借りて住む
実際住みだしてからは、お盆など年に2回程度、大家のお母さんがお菓子とお花をもって「お邪魔していいかしら?」と家にあがって仏壇に手を合わせるようになった。当初、その光景に軽い衝撃を感じたが、結局は和やかな時間として暮らしの中に融けこんだ。大家さんのことを、「お父さん、お母さん」と呼んで結束が強まっていくようなのも、楽しい。
仏壇の扉は、時折開けられる程度だったが、大家のお母さんが亡くなってからは、水・お供えもの・お花を取り替えてお線香を灯し、お母さんを思い出しながら手を合わせることが私の習慣になった。その上、ここしばらくで亡くなった友人たちの思い出の品まで集まってきて、仏壇周りがにぎやかになってきている(笑)。
家の外と中をつなぐ土間
こんな我が家のような、他に行き場のない仏壇が置いたままの家の賃貸事情は、過疎化が心配される地域では、よくある出来事なんだそうだ。貸す地元の方たちも年老いてくると益々、面倒に巻き込まれるのが嫌なのだろう。仏壇を理由に人に家を貸すことをやめ、それを理由に借りることをためらう人がいる。
私だって、もし我が家が閉塞感の強い、マンションのような建物であれば、やっぱり仏壇付は嫌だ。でも、圧倒的な自然の中で住まわせてもらっていると、家の外と中とが曖昧で、心までゆったり緩やかになるような気がする。私の幼少期の実家も、今の家と大差ない造りで台所まで土間の家だったが、外と中とを、空間的にも心境的にも繋げてくれる土間が、今も昔も好きだ。
節分の豆まきも、土間があるから鬼も「わ〜!」と慌てふためく間がある。まさか、マンションの玄関から共有の通路に向かって投げた豆を、ホウキで片づけることになろうとは昔の人たちは想像しなかったことだろう。
自分と世界が交わる「間(ま)」
どちらにしても、外から来た人が田舎暮らしをしていくためには、何かしら地域の人たちと向き合うべき時が来る。そういう意味でも、何が煩わしくて煩わしくないのか?イメージで決めつけない方が楽だろう。仏壇付の家も、然り。
この畳の下の土の中には、何かが生きている。春になって、土の上にヘビの一匹もいるかもしれない(実際よくある話)。外にでれば、蝶々やミツバチが、私のことなど気にもせず、飛んでいる。カモが沢で泳ぎ、暗くなってくるとフクロウが鳴く。
私の心も春の暖かさでひろがって、出会う人たちと交差している。自然とも交差している。自分のことだけに小さく固く不安になるよりも、いろいろな人や自然にとけこんでいる私をみんなでちょっとずつ共有してもらっているのは、なんだか愉快で安心だ。この御時世身を守るためにもTPOも必要な時もあるが、普段の暮らしでは、ある程度心は野ざらしで、どこに行っても同じような自分のままでいて、ちゃんと悲しいことがあったときには、傷つけるような大人でありたいと思う。心を自分の真ん中にゆったりと据え置いてありさえすれば、色々あっても結構平気なものなのだ。
これからも、自分の心の中にも土間のような間を持って生きていきたいと思う。どこで生きるにしても、それは幸せの一つの方法として大事にしていきたい。