先日東京(の山奥)から広島に2泊3日で出かけた。
お世話になっているメーカーさんのイベントに出店するために行ったのだけど、その代表の直美さんと同世代の女友だちとして楽しい時間を過ごすためでもあり、結局厳島神社の観光もできた、そんな旅となった。
一方で、想像してなかった感情を受け止める旅となった。今回の旅で感じたことを、ここに書き残しておくことにする。
(長文になりますが、お付き合いいただけると嬉しいです)。
原爆の爆心地付近で過ごす
目的地の詳しい場所を調べもせず新幹線に乗って、直美さんと会うまでの時間で宮島に向かうことに決めた。船乗り場の駅に向かう電車の中で地図を見て、やっとこの3日間を原爆の爆心地からすぐの場所で過ごすのだということに気がついた。ちょうどその時「いつかいち〜」というアナウンスが聞こえて電車がホームで止まった。私は驚いて窓からホームを覗き込むと「五日市」という駅名が書かれていた。何故驚いたかというと、この駅の名前は、私の暮らす街の名称でもあって、遠い広島という場所がただの旅先でなく、人が暮らす街なのだと改めて感じさせてくれた(本当に奇遇だが、駅名に「五日市」が入るのは、広島市と東京都あきる野市の駅だけのようだ)。
すぐにスマホで「五日市 原爆」と検索をかけて調べたら、「広島・長崎の記憶」というサイトが出てきた。当時五日市に住んでいた少年が爆心地から約5キロの江波という町にいた時に被曝し、よく事情もわからない中市内で働くお父さんを探して歩き回り、その時に見た悲惨な状況について書かれている。
https://www.asahi.com/hibakusha/hiroshima/h01-00291j.html
私の生まれる25年前のこと
私が、日本人が、広島という場所を切なく感じるのは当たり前のことで、原爆投下からまだ78年しか経ってない。53歳の私の両親はそれより前に生まれているし、私が生まれるたった25年前の出来事だということを子どもの頃から信じられない気持ちでいた。
この広島2泊3日の旅を私はどんな気持ちで過ごすのだろうと今更ながら考えた。
朱色をみて何を想う
人気の穴子弁当を食べてから、宮島(厳島)に船で渡った。海の中に建つ朱い大鳥居で有名な厳島神社は日本三景であり世界遺産。島ごと神様として扱っている。厳島神社を出てすぐの大願寺には平和観音があり手を合わせた。観光客で賑わう道が気分に合わず、間口が狭く奥に深い宮島の昔ながらの民家作りの土産物屋の脇道に入り、お茶屋通りの人気なくひっそりとした雰囲気に不安になりながら船乗り場の方向へ歩いた。
帰りの船のデッキから小さくなっていく朱い鳥居を眺めていたが、850年も昔からどれだけの数の人がこの光景を見つめてきただろうと思った。78年前もあの朱色をどういう気持ちで見つめただろう。宮島という神の島を血で穢してはいけないと、妊婦は島を渡って出産をしたそうだ。
川の流れと共に
直美さんと合流して、夜になった。
心地の良いベッドで横になった。女友達と語らった後の幸せな気持ちで。楽しい気持ちで。
その気持ちと一緒に、この横になっている私の下で、当時どんな人が苦しみ叫び悲しんだのかなと想像してしまう。
そのような想いが頭から離れないけれど、心は今感じている温かいおもてなしとベッドのせいか、怖いというのとも違った。歴史の上に眠らせてもらった夜だった。
2日目3日目は、元安川沿いにあるビルの素敵なお店のワンフロアーに私の出店用にテーブルを一つに椅子二脚ご用意いただき、他のお店の皆さんと並んで出店した。オーガニックの野菜や果物、お弁当やお菓子やコーヒーを目指してお客さんで賑わった。椅子に座ったまま後ろを振り返ると、大きな窓から川がたっぷりとした水をたたえて静かにゆったりと流れているのが見える。川沿いにある木は桜だそうで、春はとても美しいそうだ。きっと桜が散る頃には、川面にたくさん広がって花びらで模様が描かれるのだろうと思った。直美さんは、満月の夜が特別に美しいから是非見てほしいと話してくれた。
それは自分の胸にある
出店は何をしたかお話しすると「縁側時間」という私の個人活動で、お話を聴く企画だ。(最初の画像は終わった後に私とお話しされた方とで言葉を書きあったもの)そのための勉強をなぜしようと思ったか、人の話を聴いていきたいのか、には理由がある。平和を願うなら、まず自分からじゃないかと思ったからだ(怒ることがダメってことではないです)。ざわつく自分の心を見過ごせなかった。戦争になるのも一人一人の心からではないかと思う。まずは自分が自分を知るところから。何が本当の願いなのかを「縁側時間」を通して気づいてもらえたら本当に嬉しいと思っている(今年のアースガーデン春でも出店します!)。参加いただいた方、ありがとうございました。
78年前のいつもの朝のこと
広島の旅の最後は、新幹線の時間を気にしながらも、ちょうど展示資料の入れ替えが終わったばかりの広島平和記念資料館に歩いて行った。たくさんの人が静かに展示を見ていた。感じることで心が一杯で言葉にならないように見えた。私は今やっている企画展で、すぐ近くにあった病院やお店の建物や住んでいた人たちの生前の写真を見て、私だったかもしれないなと思った。私だったかもしれないというのは、時系列的にはあり得ないことだけど、たくさんの歴史の中にいる人の一人という意味で。毎日色々ありながらもご飯を食べて仕事をして家族と過ごし眠るという暮らしのある一人として。
そんな人の日常に起こった、あってはならないことだった。
幸せな人と空間と
さて、ここまで引っ張ってきたが、今回本当にお世話になったのは、広島にある下着メーカーのマアルさん(https://marru.net/)。体に優しい下着を中心に、環境にも考慮した美味しい食べ物や雑貨の販売をしている店舗「素 sou」は、今回参加させていただいたTreeマーケットをはじめ、映画やお話会など豊かな交流の場にもなっている。代々木公園にもアースガーデン春には広島から来てくださり、関東の愛用者の方たちと会うのを楽しみに出店されている。
広島市内は山に囲まれ川もあって平地が少ないのでマンションが多く、昭和に建てられた懐かしい雰囲気を醸しているビルが目立つ。「素 sou」のある浜本ビルもその一つ。原爆ドームから徒歩で7,8分程度のところにある。たまたま転勤で広島にご縁を持った代表の櫻木直美さんが、浜本ビルで心が温かくなるようなことをはじめられたのかと思うと、私は勝手に嬉しい気持ちになる。広島に行った際には、是非立ち寄っていただきたい。
生き抜くしかないこと
広島平和記念資料館には、復興に向けて焼け野原に建物が立ち並び始めた写真も展示されていた。広島の人がこの場所で暮らしを重ねてきてくださったことで、こうして今の広島の街になっている。そのお陰で私も旅に行かせていただけたかと思うと、嬉しくて切なくて頭が下がるような言葉にしきれない気持ちになる。広島の原爆投下については、語り部のお話や本からこれまでに何度も想いは馳せてきたけれども、それは水たまりの上をそっと指でなぞった程でしかない。
原爆死没者慰霊碑に書いてある「過ちは繰返しませぬから」という言葉を見た。主語は誰なのかはっきりしない言葉だなと思ったが、我がフリを客観的に見ていかないといけない。トルコやシリアが地震で大変な被害を受けているが、私たちは天災にも起き上がって生き抜いていくしかないのだ。東日本大震災も今年で12年になる。私たちが毎年開催してきたPeace on Earth(http://peaceonearth.jp)は今週末に開催だ。人が人と戦っている場合ではないのだ。
いろんな国から来ただろう人たちが慰霊碑で手を合わせるために並ぶのを見守りながら、戦争のない世界になりますようにと心で手を合わせた。遠く霧がかかっているようだとしても。
いつか桜が咲く頃に
一方で、原爆投下されたという広島と長崎の脅威や特別さとは別の話になるが、どこにもいつでも人の死はある。
そして、人が死ぬのが当然のように、人が生まれ続けている(少子化はあるけれども)。
広島で2泊、78年前に焼け野原だった場所の上に建った建物のベッドで眠ってみて今思うのは、悲しさや切なさだけではなくなった。子どもたちが生まれ続けてきてくれたことであり、喜びもたくさんあったことであり、もっと世の中を平和でより良い社会にしたいと願ってきた結果だと思えるようになった。暮らしがそこにあり続けたお陰。
私にとってまた行きたいと思える街ができた。印象的だった広く青い空も元安川沿いの染井吉野の満開に咲いた桜並木も見たいし、お好み焼きも牡蠣もまた食べたい。
マアルのスタッフの皆様、直美さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました!
そして、
広島、ありがとう!
田川登美子
2023/2/20