連れ合いの南兵衛(N氏)とアースガーデンを立ち上げてからの30年のエッセイ。フェスティバルは、仕事の中にも、暮らしの中にもあった。フェスのなかった時代から、フェスが当たり前になった今へ。
今回のお話は、フリーマーケットを開催することになった時の、0歳の息子との奮闘記です。
前回のお話はこちら
https://www.earth-garden.jp/goodlife/79869/
30年前は、紙全盛期の時代。紙からネットワークに変わっていくことにまだ実感湧いておらず、でっかい箱のようなパソコンやPowerBookを張り切って買ったのは、それから3年くらい先のこと。フリーマーケットの広報もSNSで発信できるわけもなく、全部紙。チラシ。看板。今でも繁華街にいくと電信柱に求人だとかベタベタ張ってあるが、あれは、当時どこの町にもある光景だった。
新米母と広報活動
フリーマーケットの名前は「フリーマーケット楽市楽座」に決めた。湯島聖堂の歴史のある雰囲気にもちょうど良いと思った。初回開催するのに、宣伝をしなくてはならない。当時カットイラストを描いて小遣いを稼いでいた私は、手書きでチラシをつくってお店などに置いてもらった。でも、お茶の水駅を起点に暮らしをしている街の人たちにフリーマーケットを活用してもらうためには、もっと知ってもらう必要があった。
そんなある日、お茶の水駅前でチラシ配ってきて宣伝してきてよと、N氏に言われた。まさか!こんな小さな赤ん坊連れて!と思ったが声にならなかった。だいたい私は本当に驚いたときは声にならない。私がやるかどうかはともかく、それが必要なことは、頭では分かっていた。みんなはGAIAを軌道に乗せようと遅くまでがんばって働いていた時期で、日中いつでも動けるのは私だけだった。

0歳の息子とチラシ配り
私はある日、意を決して小さい息子を抱っこし、夏の暑い中お茶の水駅前の交差点に立った。駅前の混雑する中だと、ベビーカーがチラシ配りに邪魔だとおもったので、全部自力でもった。体の前に息子、後ろにベビーグッズのはいったリュック、肩にチラシ。
「9月から毎月第三日曜日に湯島聖堂でフリーマーケットを始めます。出店者も募集中です。遊びにきてください!」

そう声をかけて交差点を行き交う人に手渡そうとするが、これがなかなか難しく、受け取ってもらえると本当にうれしかった(続けるうちに上達しました!)。ただ、3,40分もすると息子がぐずりだしてしまう。仕方なく涼しい喫茶店に入りしばらく休憩すると泣き止む。チラシ配りの間、これを何回か繰り返すことになった。
そんなことを何日かやったある日、ふと気づいた。女性や年配の人の方が多く受け取ってくれているのと、その視線だった。
視線の意味
気の毒な人を見るような視線。はっ!と気づいた。もしかしたら、父親(夫)探しをしている気の毒な人妻とか、そういう人に見られているのかもしれない、と。「この子の父親を探しています。心当たりのかた、いらっしゃいませんか?」って。昭和のテレビドラマみたいな妄想をした。
慌てて喫茶店に入って、ぐずぐずと泣き止まない息子を膝に乗せて抱っこして揺らしながら、私も一緒に泣いてしまった。父親を探さなくても炎天下で赤ん坊を抱きながらチラシを配る私や、もしくは息子を気の毒に思って見る人もいるだろう。辛さと情けなさで泣いていると、こんなことをやれと言い出したN氏に無性に腹がたって、夜にはこんなのは無理だと夫婦喧嘩になった。
よく泣き、たくさん汗をかく、そんな人生の幕開けだった。

結局、チラシ配りはN氏やGAIAのスタッフも一緒やってくれたりして無理せぬ範囲で続けた。当時もベビーシッターさんはいるにはいたが、私にとって登録など気楽さがなく、初めての子育てで手の抜きどころなども分からなくて、それ以前に息子を知らない人に預けて離れるのが不安だった。
こうしてアースガーデンは、手から手へ、言葉を掛けながら、チラシを手渡すことから始まった。
憧れのおばちゃんたち
あの時、駅前で必死に声を張るわたしは、周囲の景色から孤立しているように感じていた。今の私からは初々しく眩しくさえ感じるが、実際の私には、顔見知り程度の近所のママ友たちとの交流で悩みを打ち明けあうような時間が必要だったし、親のサポートや、近所のおばちゃんたちの気さくな声がけに救われていた。選択肢が少なく、自分を俯瞰する余裕がなかった。
私は、若かった私と息子に、街中や電車の中で声をかけてくれた、おばちゃんたちのようになりたいと思う。彼女たちが息子を見て「あら、かわいいわねぇ何ヶ月なの?」と声をかけてくれると、育児で混沌としていた心がその瞬間だけでも素に戻れた気がした。「あなた、ここにいるのよ。いていいのよ。」そんな事を言われた気がしたのだった。
〜次回、初めてのフリーケットが雨天中止!? に、つづく。
